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仏像 高野槙.jpg

縁起

 当山は神宝山・法皇院 大福田寺と称し、今より約千四百年前、用明天皇(在位585~587)の皇子 聖徳太子(574~622)が伊勢の山田に御創建されたお寺です。

 天武天皇(在位673~686)、持統天皇(在位686~697)、聖武天皇(在位724~749)、淳和天皇(在位823~833)各天皇の御臨幸あり、聖武天皇勅して大神宮寺と称され、淳和天皇時代に勅願寺に指定されました。

 天長年間(824~834)には、弘法大師がひと夏の間お過ごしになられ、三密の法をご修行されております。

 延喜年間(901~923)、寛平法皇(宇多天皇)が境内にお住まいを移し、過ごされました。明治時代のはじめまで御室御所と称され、菊のご紋の使用が許されておりました。

 寛平法皇が天皇に在位時代(887~897)の第三皇子、真寂親王が稔侍佛の不動尊を寄進奉納せされました。この不動尊は、現在聖天堂に安置され、厄除不動として今も多くの信仰を集めております。

 永承七年(1052)正月には、後冷泉天皇(在位1045~1068)が御行幸になり、一千人の僧を集めて勅会(天皇の勅令で開かれる法要)の読経が行われました。

 その後、後弘年間(1278~1288)中に天災・火災に遭い堂塔伽藍は荒廃し、寺運は衰えました。時の後宇多天皇(在位1274~1287)は当山の荒廃をお嘆きになり、勅命により神宮詞人大和守額田部実澄公の領地、北勢四ヶ郡内(三重、朝明、猪名郡、桑名)の時を寄進し、忍性上人(鎌倉・極楽寺を創建した高僧)と協力し桑名郡神戸郷(現在の桑名市大福地内)に七堂伽藍、塔頭三十七、末寺四百四十余ヶ寺を有する大寺院を再建するに至り、「福田寺」と名付けました。一般には大寺(だいてら)と呼ばれていたそうです。

 その偉業により後宇多天皇より勅願寺の役を再び賜りました。この時、後宇多天皇は赤須賀の浜にて漁師の網にかかった因縁深き阿弥陀如来像を本尊として、勅納寄進されるとともに、北勢四郡の寺領安堵の綸旨(りんじ)を下賜されました。

 その後、足利将軍尊氏が当山を深く尊信し、「大」の文字を加え「大福田寺」と改号しました。

 弘安四年(1281)の蒙古襲来の折、当山にて国難突破のため仁王会、大般若会などの祈祷会が行われております。

 明応年間(1492~1501)の冬、郡内に凶賊起こり当山伽藍を城郭となし火を放ち、堂宇・本尊たちまちにして灰燼と化しました。その後、当山は荒廃の一途をたどるのみでありましたが、文亀元年(1501)、時の住職。叡熈上人は不思議な霊瑞を蒙り、全国に勧進して再建を図り、七堂伽藍を造営し、文亀三年(1503)本尊を造立して、以前に劣らぬ大法堂を建立しました。

 永禄十年(1567)四月十八日、朝廷より山内保護の禁制札を賜り、そのおかげもあり元亀、天正年間の兵火に直接被害を受けることはありませんでしたが、近隣での度重なる兵火、劫掠(ごうりゃく)、風水害の難を受け、再び寺運は衰退。万治三年から寛文二年(1660~1662)に至り、当時の住職、深印法印は、尾張松平家に乞うて現在の地に堂宇を移築造営し今日に至ります。

 文政年間(1818~1830)松平定信公は、御持念の歓喜天尊ならびに供養料百石を寄せて聖天堂を建立されました。それ以来、神宝聖天尊と称され、日本三大聖天のひとつとして福徳開運、敬愛和合の霊験あらたかなりと民衆の信仰厚く、同じく堂内に祀られている厄除不動尊、三面大黒天、毘沙門天とともに、今日まで多くの参詣者が訪れる霊場となっています。

 明治初年(1873~1883)頃は桑名が正米取引所として栄え、信者が増大し、全国より参詣者が集まり、日夜参籠する人が絶えませんでしたが、取引所の閉鎖(1931)や戦争などにより寺運は必ずしも順調ではありませんでした。

 太平洋戦争中、昭和二十年(1945)七月。米軍による桑名空襲のおり、七十ポンドの焼夷爆弾が聖天堂に落下しました。あわや焼失するところでしたが、聖天尊の厨子の宝珠が焼夷弾の発火栓を塞ぎ、幸いにも伽藍の焼失を免れました。

 戦後、多くの方のご尽力も賜り、「桑名の聖天さん]として広く親しまれております。

 また三重八十八ヶ所霊場 一番札所、伊勢西国三十三所観音巡礼 番外、伊勢七福神 大黒天。各札所となっています。

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